映画『サファリ』グロテスクな印象が強すぎて見過ごされそうなこと
●「持続可能な利用」の意味
2018年1月27日からドキュメンタリー映画『サファリ』が日本で公開された。この映画のテーマの「トロフィーハンティング(観光狩猟)」は、野生動物の持続可能な利用であり、高額な狩猟料は野生動物の保護のために使われる、とされている(*1)。しかし、実際は地域住民のためにも野生動物のためにもなっておらず、汚職や乱獲につながっているという事実が明らかになってきている(*2)。
日本政府は、象牙や水産物などの「持続可能な利用」を推進している(*3)。
日本でイメージされる「持続可能な利用」とは、のどかな里山の風景ではないだろうか。そのイメージを打ち破るドキュメンタリー映画である。
(参照)
*1「護るために殺す?――アフリカにおけるトロフィー・ハンティングと地域社会安田章人 / アフリカ地域研究、環境社会学」
*2『生物多様性保全と持続可能な消費生産』p103-104
*3『適正な象牙取引の推進に関する官民協議会 フォローアップ報告書』P2
●観光狩猟者の後ろめたい思い
映画の中で観光狩猟者はなぜ狩猟をするのかを語っている。「老いた動物や病気の動物を撃つのは良いこと(実際は見つけた動物を撃っていたようだが?)」「『殺す』とは言いたくない『仕留める』と言いたい」「数の少ないヒョウは撃ちたくない」「法律を犯しているわけではない」。
そんなに後ろめたいならなぜ狩猟をするのだろう?観光狩猟者は撃つ時のスリルやライフルの性能のうんちくを語る。遠くから動物を撃ち、獲物と記念撮影をし、美しいはく製を持ち帰る観光狩猟者は、クレーンゲームでぬいぐるみを得るのと同じくらい、生き物である動物の存在を意識していないように思われた。
観光狩猟者の一人は、殺すのは観光狩猟のごく一部の要素で自然の中にいることに楽しみを見出しているというようなことを語っていた。
大人が海辺でぼんやりしていると怪しまれるけれど、釣り糸を垂らしていれば、釣れなくても海辺での時間を楽しめる。それと同じだろうか。
それなら日本自然保護協会の自然観察指導員講習会で学ぶ「採らずに見よう」はどうか。狩猟ではなくて写真撮影を推進する動きはあるが、もっと生きている姿や他の生き物とのかかわりを見てみるのはどうだろう。
撮影地はナミビアだそうだが、隣国南アフリカでのワシントン条約締約国会議に参加した時ホテルで聞いたのと同じ、ハトが「ポロロ」と鳴く声が映画の中から聞こえた。その他に小鳥のさえずりや、草むらからひっきりなしに聞こえる虫の音も映画には録音されているが、それらに注意は払われていない。
仲間を撃たれたキリンが、仲間が絶命する様子や人間が死体と記念撮影をする様子を遠くからじっと見ていたことも背景に写っていた。撮影は乾季のようで草は枯れていたが、雨季の後なら花が咲いていたのだろうか。野生生物の生きている様子や自然を楽しむことができれば、一般の観光狩猟者にとって動物を殺すことそのものは重要ではないのかもしれない。
●金持ちのための「持続可能な利用」
では一般の観光狩猟者ではない、利権のある人にとってはどうか。狩猟牧場のオーナーは、自然が失われたのは人間が増えたせいだという。それは人間の歴史から見て事実ではあるが、「富の偏り」も問題ではないか。
狩猟牧場の白人のオーナーが、野生動物付きの広大な土地を所有していること。映画の中で狩猟していた動物の値段はシマウマ3000ユーロ(約40万円)、キリン3500ユーロ(約47万円)。観光狩猟者は家族で何日も滞在し、いくら払っているのだろう。
また観光狩猟者が撃った動物の死体を運んで、血まみれになって解体して、はく製にするのは黒人であること。観光狩猟の利益を得ていると言われている黒人たちは粗末な小屋に住み、解体した動物の肉が分け与えられ、食べていること。映画は「富の偏り」を描く。
この映画のような観光狩猟を「持続可能な利用」であるからよいという考えは、「富の偏り」を前提にしていることを忘れてはならない。
お金や権力のある人の声は大きくて、一見良さそうに聞こえるけれど、金持ちではない、大多数の人々の声に耳を傾けて、その生活の持続と野生生物の共存を図っていくことこそ大事なのではないだろうか。クレーンゲームでぬいぐるみをゲットするように手を汚さずに動物を撃つ狩猟観光ではなく、現地の人が「私たちの誇る自然と文化を見てください」と案内し、観光客も自然と異文化に敬意をもつ、そういう観光へ変えられないものだろうか。
(参考)
・森川純 書評論文『アフリカ潜在力 5自然は誰のものか-住民参加型保全の逆説を乗り越える-』(会報『JWCS通信』に連載)
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