2018年6月 7日 (木)

シンポジウムの話題から考えたこと

生物多様性基本法制定10周年記念シンポジウム レッドリストと種の保存
2018年6月2日(土)早稲田大学 
主催:WWFジャパン、日本自然保護協会、日本野鳥の会 
共催:IUCN日本委員会、イルカ・クジラ・アクションネットワーク、グリンピース・ジャパン、トラ・ゾウ保護基金、野生生物保全論研究会
シンポジウム全体の内容は主催団体からの報告に譲り、ここではJWCSの理論研究会でテーマとしてきた、「保全と利用」について考えてみました。
●未来のおじい、おばあはヤンバルクイナを食べるか?
 シンポジウムで「昔はヤンバルクイナを食べていたと沖縄のおじい、おばあは言っていた、将来ヤンバルクイナの数が増えて、再びおじい、おばあがヤンバルクイナを食べられるようになるといい」という話がありました。
 絶滅危惧種が消費できるほど増えてほしいという意味だと思いますが、実際にヤンバルクイナを食べるようになるでしょうか?

 未来のおじい、おばあは、現在の小学生かもしれません。2015年に沖縄のヤンバルクイナ生態展示学習施設に行ったとき、国頭村のヤンバルクイナのキャラクターの名前が「キョンキョン」に決まったお知らせや、ヤンバルクイナを小学生が描いた絵が張られていました。
 もしも生態展示学習施設でヤンバルクイナの絵を描いている遠足の小学生に、「おじい、おばあになったらヤンバルクイナを食べたい?」と聞いたら「へんなひとー!」と言われてしまうかもしれません。そして帰宅後、「ママー、今日ね、変な人にヤンバルクイナ食べたい?って声かけられた」なんて話したら、「遠足で不審者出没」というLINEが保護者の間で飛び交ってしまうかもしれません。それくらいヤンバルクイナに対する認識は変わっているのではないでしょうか。将来、数が増えてもヤンバルクイナは大切にするものであって、食べるものではないという認識は変わらないのではないかと思います。
●「食べる」「カネになる」だけが自然と人のつながりか

 またシンポジウムでの「食べたり、利用したりするという伝統的な自然とのつながりがなくなると、その自然を守ろうと思わなくなる」という話にも疑問を感じました。
 生態展示学習施設でヤンバルクイナの絵を描いた小学生は、昔ヤンバルクイナを食べたおじい、おばあに比べて、自然を大切にする気持ちが劣っているのでしょうか。そうではなくて自然と人間のつながりが「それ食えるのか?それともカネになるのか?」というつながりから、「絶滅危惧種は大事にする」に変化したのではないかと思います。
 かえって「食べる・カネになる」という価値は、自然に対してより大金が提示されれば(カネがあればもっといろいろな食べ物が買えるので)小さくなってしまうでしょう。
 今回のシンポジウムの登壇者のひとり、中静徹・総合地球環境学研究所特任教授の論説文「絶滅の意味」が中学校の国語の教科書に掲載されています(新編 あたらしい国語 3年 東京書籍)。生態系のしくみや生態系サービスなどを学んだ世代は、「それ食えるのか?カネになるのか?そういう価値がなければ守る必要はない」というのは、20世紀の人間の考えだと思うのではないでしょうか。
 そうすると「伝統が失われて嘆かわしい」という声が上がるかもしれません。しかし失われる伝統には、若い世代に引き継がれない理由があるはずです。
 一般に伝統と言われるものには昔ながらの男尊女卑がしみ込んでいるので、それを理解せずに「上から目線」で「伝統を守れ」と言ったところで、若い世代、とくに女性から忌避されて静かに廃れるのではないかと思います。 「伝統」は絶対視されがちで、反論すると面倒くさいので、伝統が廃れる本当の理由は表に出ないように思います。
 ところでご神木や神の使いなど「食べる、カネになる」以外の価値のために野生生物を大事にすることもありますが、その「伝統」はあまり強調されないようです。定義があいまいな「伝統」よりも、地域の自立と持続可能性から地域の将来を考える方が、保全につながるのではないかと思います。
 
 
 さらにこのシンポジウムは、登壇者が全員男性でしたが、参加者には多くの女性の姿がありました。また仕事としてレッドリストや生物多様性について情報収集のために来ている参加者が多いように見えました。

 いまや自社の企業活動が種の絶滅に加担してしまったら、自社製品の不買運動がインターネットを通じて世界規模で起こるかもしれません。また投資家が、環境への配慮が足りない持続的でない会社と判断して投資をやめるかもしれません。絶滅危惧種への対応はビジネスリスク要因になったのです。ここにも「食えるのか?カネになるのか?」という認識とのギャップがあります。  
 このシンポジウムは「生物多様性基本法制定10周年記念」として、法律制定の経緯やレッドリストの基本となる考え方など、過去を振り返って意味を考えたり、整理をしたりする、その名にふさわしい内容でした。そこで語られた「過去」と、現在の認識のギャップは、もしかしたら主催者側より参加者の方が、より多く気付いたかもしれないと感じました。 
 
(JWCS 鈴木希理恵)

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2018年2月 8日 (木)

映画『サファリ』グロテスクな印象が強すぎて見過ごされそうなこと

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●「持続可能な利用」の意味

 2018年1月27日からドキュメンタリー映画『サファリ』が日本で公開された。この映画のテーマの「トロフィーハンティング(観光狩猟)」は、野生動物の持続可能な利用であり、高額な狩猟料は野生動物の保護のために使われる、とされている(*1)。しかし、実際は地域住民のためにも野生動物のためにもなっておらず、汚職や乱獲につながっているという事実が明らかになってきている(*2)。

日本政府は、象牙や水産物などの「持続可能な利用」を推進している(*3)。

 日本でイメージされる「持続可能な利用」とは、のどかな里山の風景ではないだろうか。そのイメージを打ち破るドキュメンタリー映画である。

(参照)

*1「護るために殺す?――アフリカにおけるトロフィー・ハンティングと地域社会安田章人 / アフリカ地域研究、環境社会学」

*2『生物多様性保全と持続可能な消費生産』p103-104

*3『適正な象牙取引の推進に関する官民協議会 フォローアップ報告書』P2

●観光狩猟者の後ろめたい思い

 映画の中で観光狩猟者はなぜ狩猟をするのかを語っている。「老いた動物や病気の動物を撃つのは良いこと(実際は見つけた動物を撃っていたようだが?)」「『殺す』とは言いたくない『仕留める』と言いたい」「数の少ないヒョウは撃ちたくない」「法律を犯しているわけではない」。

 そんなに後ろめたいならなぜ狩猟をするのだろう?観光狩猟者は撃つ時のスリルやライフルの性能のうんちくを語る。遠くから動物を撃ち、獲物と記念撮影をし、美しいはく製を持ち帰る観光狩猟者は、クレーンゲームでぬいぐるみを得るのと同じくらい、生き物である動物の存在を意識していないように思われた。

観光狩猟者の一人は、殺すのは観光狩猟のごく一部の要素で自然の中にいることに楽しみを見出しているというようなことを語っていた。

大人が海辺でぼんやりしていると怪しまれるけれど、釣り糸を垂らしていれば、釣れなくても海辺での時間を楽しめる。それと同じだろうか。

 それなら日本自然保護協会の自然観察指導員講習会で学ぶ「採らずに見よう」はどうか。狩猟ではなくて写真撮影を推進する動きはあるが、もっと生きている姿や他の生き物とのかかわりを見てみるのはどうだろう。

 撮影地はナミビアだそうだが、隣国南アフリカでのワシントン条約締約国会議に参加した時ホテルで聞いたのと同じ、ハトが「ポロロ」と鳴く声が映画の中から聞こえた。その他に小鳥のさえずりや、草むらからひっきりなしに聞こえる虫の音も映画には録音されているが、それらに注意は払われていない。

 仲間を撃たれたキリンが、仲間が絶命する様子や人間が死体と記念撮影をする様子を遠くからじっと見ていたことも背景に写っていた。撮影は乾季のようで草は枯れていたが、雨季の後なら花が咲いていたのだろうか。野生生物の生きている様子や自然を楽しむことができれば、一般の観光狩猟者にとって動物を殺すことそのものは重要ではないのかもしれない。

●金持ちのための「持続可能な利用」

 では一般の観光狩猟者ではない、利権のある人にとってはどうか。狩猟牧場のオーナーは、自然が失われたのは人間が増えたせいだという。それは人間の歴史から見て事実ではあるが、「富の偏り」も問題ではないか。

 狩猟牧場の白人のオーナーが、野生動物付きの広大な土地を所有していること。映画の中で狩猟していた動物の値段はシマウマ3000ユーロ(約40万円)、キリン3500ユーロ(約47万円)。観光狩猟者は家族で何日も滞在し、いくら払っているのだろう。

 また観光狩猟者が撃った動物の死体を運んで、血まみれになって解体して、はく製にするのは黒人であること。観光狩猟の利益を得ていると言われている黒人たちは粗末な小屋に住み、解体した動物の肉が分け与えられ、食べていること。映画は「富の偏り」を描く。

 この映画のような観光狩猟を「持続可能な利用」であるからよいという考えは、「富の偏り」を前提にしていることを忘れてはならない。

 お金や権力のある人の声は大きくて、一見良さそうに聞こえるけれど、金持ちではない、大多数の人々の声に耳を傾けて、その生活の持続と野生生物の共存を図っていくことこそ大事なのではないだろうか。クレーンゲームでぬいぐるみをゲットするように手を汚さずに動物を撃つ狩猟観光ではなく、現地の人が「私たちの誇る自然と文化を見てください」と案内し、観光客も自然と異文化に敬意をもつ、そういう観光へ変えられないものだろうか。

(参考)

・森川純 書評論文『アフリカ潜在力 5自然は誰のものか-住民参加型保全の逆説を乗り越える-』(会報『JWCS通信』に連載)

『サファリ』公式ページ(日本語)

『サファリ』英語版公式ページ

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